財団関連情報

 ■設立の経緯と創設者


 経 緯

公益財団法人原田積善会は故原田二郎が大正9年(1920年)7月に全資産(1020万円)を拠出して設立した社会公益事業に対する助成団体である。当時は明治維新後約半世紀を経過し、先進諸国に追い付こうと懸命に努めてきたわが国にも当然のこと乍ら、いろいろな社会的な歪みが目立つようになってきた。米騒動や労働争議の頻発、貧富の格差の急激な拡大などがこれである。
しかし一方で国や地方公共団体にあっては社会福祉事業に対する制度は整備されておらず、また予算も今日とは比較にならないほど少額であった(大正8年度の旧内務省{現在の厚生労働省を含む}全体の経常部予算は僅か19百万円であった)。
こうした状況の下で原田二郎は「国家及び社会の公益事業につき奨励すべきもの、助成すべきものに対し、必要な経費の一部を支弁する」(設立理由書の一部意訳)ことを目的として財団の設立を企画した。当時にあっては比肩出来ない程の巨額な資金(現在の貨幣価値でみれば150億円程度)を拠出しこのような事業に踏み出す決意は、当時の首相 原 敬や社会政策に理解のある内務大臣床次竹二郎の全面的な支持・賛同を得て、財団は申請からわずか12日間で内務大臣から設立の許可をうけている。
当財団にはいくつかの特色がある。

  1. 財団の助成資金はすべてその保有する資産の運用から生じた果実をもってあて、国・地方公共団体・企業等からの支援には一切依存してこなかったこと。
  2. 財団は長期にわたり成長・発展することを前提としておりこのために格段の努力を続けてきたこと。
  3. 創設以来、大正、昭和初期、戦後を通じて常に時代の要請に応えるだけでなく、しばしばその動きを先取りする形で先駆的かつ継続的な助成を行なうよう努めてきたこと。
  4. 設立理由書には「中産階級の中で災害等にあったり、何らかの理由で困窮した人々を救済する」(意訳)ことを特に挙げている。このことは文化・教育・経済の担い手としての中産階級の存在が、社会安定のために極めて重要であるとの認識であり、この点は設立以来いささかも変化していないこと。
  5. すべて助成を自己努力によって生み出された資金による必要上、設立以来常に積極的かつ効率的な資産運用に努めてきたこと。この結果、戦争による混乱、戦後の大インフレーション、更には最近十余年にわたりバブルやその後のデフレ、超低金利など苦難の途にあってもとぎれることなく一定額以上の助成を継続してきたこと。
などがあげられよう。

 創設者 原田二郎

原田二郎 遺影
原田二郎 遺影
原田二郎は、嘉永2年(1849年)10月10日、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世 (せこのぶつぐ)に随行して京都に上り、更に23才のとき維新後間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ。
その後大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。
その後37才で東京に居を移して療養生活(胸部疾患)を送ったのち、明治35年(1902年)54才の時、明治の元勲の一人である 井上 馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。
大正8年(1919年)に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌大正9年(1920年)原田二郎家を絶家のうえ全財産を拠出し、積年の計画であった原田積善会を設立。その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、昭和5年(1930年)5月5日、82才で死去した。

原田二郎 旧宅
松阪市殿町 原田二郎旧宅(平成19年12月 松阪市に寄贈)
この家は原田二郎の生家であるが、永年に亘り分家の原田小二郎、誠氏が管理してきたものである。松阪市により修復・整備が行われ、平成24年秋から一般公開されている(市の有形文化財に指定)。
なお、当財団の既発表資料等で原田家絶家とあるのは原田二郎家絶家の意味であり、分家は存続している。